私は数年前に、吉田松陰についての著作を発表したことがある。そして、彼が教育に対し並み並みならぬ情熱を持っていたことを再確認した事実がある。

皆さんは、あの有名な「ジキル博士とハイド氏」や「宝島」を書いたイギリスの文豪ロバート・ルイス・スチーブンソンをご存じだろうか。吉田松陰のことを書き始めるにあたって、彼の名を書くことは、唐突に思われよう。しかし、それには理由がある。1880年、スチーブンソンは、「ヨシダ・トラジロウ」という著作を発表しているのだ。「吉田寅次郎」は、本稿の目的とする吉田松陰その人である。

吉田松陰の伝記が「日本で」初めて書かれたのは1891年の「吉田松陰伝」といわれ、野口勝一・富岡政信による。したがって、世界で初めて吉田松陰の伝記を書いたのは、このスチーブンソンだということになる。これは驚くべきことだ。スチーブンソンがどうして松陰を知っているのだろうと不思議に思われよう。それには、一人の日本人がかかわっていた。

その日本人の名は「正木退蔵」。東京大学の一つの母体となった東京開成学校の設立にかかわり、さらに東京職工学校(現東京工業大学)の初代校長となった彼は、日本発展のためにつくられた技術教育の学校の中で、松陰を手本とした教育を展開した人物である。

もちろん彼は、若き時代に松下村塾に学んだ。しかしその期間は短期間である。短期間ではあったが、松陰は彼の中での大きな存在だったに違いない。

かれは、イギリスへの留学中の1878年、エジンバラ大学の教授に招かれた晩餐会で、二人の人物と会う。一人は後に正木の求めに応じて日本で機械工学や物理学の教鞭とることになる当時23歳のユーイング。ユーイングはさらにその後にケンブリッジ大学などで教授を務め、晩年にエジンバラ大学の副学長にまでなる。そして、もう一人が28歳の当時無名の作家だったスチーブンソンである。退蔵31歳の時であった

この晩餐会の席で、退蔵は、その師である吉田松陰の豊富な知識、熱のこもった教育、そして、実行と失敗を繰り返した生き様を、師同様に熱く語ったに違いない。スチーブンソンはその話に感銘を受けたのだ。

「ヨシダ・トラジロウという名は、ガリバルディ(イタリア統一戦争で活躍)やジョン・ブラウン(奴隷解放の乱の指導者)のようによく知られた名前になるべきだ」と最大の賛辞によって伝記「ヨシダ・トラジロウ」は始まり、「私自身は正確には本書の著者ではないと言いたい。この物語は理性的な日本の紳士・正木退蔵氏から聞いたことを伝えるものである。

彼はヨシダのことを、大きな誇りを与えてくれた偉大な人物として、情熱的に語ってくれた」とある。正木退蔵にとって、松陰との出会いが後の人生にどれだけ大きな影響を与えたかを知ることができるエピソードである。その情熱は、かの若き文豪にペンを持たせるほどのものだったのである。

退蔵は後に外務省に転じ、ハワイ総領事などを歴任した後、東京の巣鴨に静かに眠っている。今、その墓を見おろす霊園の桜は、風に誘われ桜吹雪となっているかもしれない。春、新年度のスタート。われらはまず退蔵やスチーブンソンを感じさせたように、熱情ともいうべき情熱で生徒に向かおう。生徒諸君に語ってもらえる燃えに燃えた存在として…。そして、生徒の記憶に残る塾でありたい。